
東京都中央区に生まれる。
アラカワの祖母実家は江戸時代は八丁堀で流刑地向けに米を販売する米屋だった。
(その縁か流刑地に向けて船が出る霊岸島に祖父は家を建てた)
その米屋に丁稚で来ていたのが富山県の庄屋の三男坊のアラカワ祖父だった。
アラカワの苗字は祖父が東京に出る時に引き継いだ苗字だそうだ。
母親実家は津軽藩の藩士だったが明治になり失職し、その孫が茨城の商家の娘だか息子と結婚して東京に出て来て日本橋に喫茶店を開いた。戦争前後に喫茶店から蕎麦屋になり蕎麦屋は最終的には伯母がきりもりしていた。その為私は蕎麦屋の孫で米屋の孫と言うことになる。画像は昭和初期の母実家喫茶店。

母実家が蕎麦屋で叔父は板前だった。
その為食べ物はいささか豊富にあり、小学生から酒のアテみたいな物を食べていたのと、叔父は京都〜舞鶴で修行していたので食べさせてもらう物は関西寄りの味になる。
おかげで私の舌は関西寄りになっている。関西寄りになっても蕎麦屋の孫だから蕎麦はだいぶ煩い。

中学生の時は放送委員会委員長、写真部部長だった。
小学生の頃喘息で休みがちだったのだが工作とか、作文とか、公害の発表とかで区の代表に選ばれたりしたが、休みがちなのをやっかんでチャチャを入れる同級生やPTAがいたので越境して日本橋の中学に行った。と言っても中学では放送機器のイクイップメントで遊んでいた覚えばかりだった。Guitar始めたのこの頃。

高校からバンドを始めて、
ローンでMTRを購入してデモテープを作る様になる。
20歳の時に音楽事務所に行ってプロのエンジニアにデモテープを聞いてもらう。
10本持っていって預かりになったのは一本(1曲)だった。
この時録音スタジオに通って中や壁の中まで見せてもらったのが後にスタジオを設計する時に役に立つ。
この頃仕事は叔母の経営する定食屋〜リサーチ会社の電算室オペレーター〜プログラマー〜派遣のOASYSワープロインストラクター〜スナックのまかない手伝い等だった。